自分の感じる価値を きちんと知っているか。【エッセー】

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こんなにまじまじと、
真珠玉を見つめたのは
生まれて初めてかもしれない。

「すいぞくかんで、
 じぶんで、とったの」

誇らしそうに説明する彼女は
あと4ヶ月で5歳になる。

彼女の手の中で鈍く光る
本物の真珠玉は、
「しずくみたい」という説明通り
上部に突起のある
不思議なフォルムをしていた。

ほかの子のものよりも、
ずいぶんと大きかったらしい。
ふふ、と顔をほころばせる。

 

この日 私は
3ヶ月と少しの間
生活させていただいた
シェアハウスを訪れて、
子どもたちとの
アクセサリー作りを目論んでいた。

100円均一で購入してきた
色とりどりのビーズを見せると、
彼女の目の色が変わるのがわかる。

「イヤリングを作ろうと思うの」

ゴールドの丸いフープに
各自自由にビーズを通してもらい、
UVレジンで口を閉じて
丸カンをつなぐ。

簡単な作業だったが、
彼女たちは とても真剣に、
かつ慎重にビーズを選んで
1つ1つフープに通していく。

 

途中、
イヤリングにするためのパーツが
片方なくなった。

探していると 彼女は
親御さんから
真珠用に買ってもらっていたパーツを
ごく自然に分けてくれる。

「しんじゅは、いつでも、いいから」

全ての判断基準は
今、楽しいかどうか。
そのことに
はっ、とさせられる。

  

完成すると 彼女は
私が真珠を見つめたときよりも
しっかりとした目で
イヤリングを凝視する。

そして
なんの変哲もない
小さなタッパーに、
100均のビーズと
手作りしたアクセサリーと
本物の真珠玉とを、
一緒くたにして
ザクザク放り込んでしまった。

水族館でしか手に入らない真珠玉も、
簡単なパーツで作ったイヤリングも、
彼女にとっては
お気に入りのタッパーに入れるくらい
大切なもの。

価格なんかじゃはかれない
自分の感じる価値を
きちんと知っているから、
真珠も
イヤリングも
同じように扱う。

  

ごく自然なことなのに、
いつから
できなくなってしまっていたのだろう。

私の感じる価値に、
もっと自由に。
もっと自然に。

勉強になります。

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